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「幸せ」な生き方 その答えは【野々原ゆずこ】にあった

皆様、こんにちは。前回はシーラカンスにされてしまいましたが、何とか千年先の木々に生まれ変わり、もう一度甚平に生まれ変わりました。

 

 

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さて、突然ですが、皆さんは「幸せ」って何だと思いますか?


これについて、「金」や「恋人」、「家族」などと言った、物質的な側面から考えた人。


それで正解です。


それに対して、「信仰」や「人生観」、「無い」といった精神的や哲学的な側面から考えたあなたも、


正解です。


そう、一口に「幸せ」と言っても様々なものがあります。


お金が一杯あると色んなもの買えるから幸せ」とか、
幸せとは、自らの精神が生まれるもの」といったように、


人の数によって「幸せ」の価値観は様々な思考に分かれます。


しかし、どれも共通して言えるものがあります。


それは、「幸せは得がたい」ということ。


「幸せ」というものは、満たされない限り得ることはできません。


例えば、あなたが今10万円を得たとしましょう。


それは絶対と言える「幸せ」ですか?


確かに、何も苦労せずにお金が貰えれば一時的な「幸せ」は得られるかもしれません。


しかし、それと同時に「もっと欲しい」だの、「不幸の前触れ」だの、充足とは言い難い欲望や不安が立ち込めるではないのでしょうか?


これを割り切れる人というのは、ほとんどいないのではないのでしょうか?


ほら、これを今読んでいるあなたも。


「幸せ」というのはそういうもの。コンスタントにはいかないもの。


現れては離れていく。無常。砂上の楼閣。


もしも、「幸せ」を手に入れ続けたいと思うならば、それこそあなたの「生き方」を変えなければならないのです。


日常の些細な出来事、それを「幸せ」と捉えられたら…。


しかし、そんな「生き方」、どうやって見つければ───

 

 

 

 

 

 

 

その答えは、【野々原ゆずこ】にあった!!

 

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野々原ゆずこ とは?

 

 

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野々原ゆずことは、三上小又による4コマ漫画『ゆゆ式』に登場する主要人物の一人である。


また、『ゆゆ式』とは、野々原ゆずこ、そしてその友達の櫟井唯と日向縁が、所属する部活の情報処理部として活動したり、活動しなかったりする様子を描いた、日常系の究極の形である。

まさに、今回の内容にピッタリの漫画である。


では、その野々原ゆずこが「幸せの答え」とはどういう事なのか?

 

 

 

幸せの生き方

 

結論から言おう。

「幸せ」とは、
野々原ゆずことして生きること
である。

 


少し略しすぎたかもしれない。要は、「野々原ゆずこの生き方を見倣う」という事である。

 


では、その「生き方」とはどんなものか?

 


それをゆっくりと解説していこう。あなたも、これを見れば「幸せ」というものが何か?その答えを見付けることが出来るだろう。

いや、割とマジで。

 

 

 

常に何かを始める心


人生が何故「幸せ」ではないのか?それは、「幸せ」とは冷めやすいものだからである。


先にも述べたことだが、「幸せ」というのは、コンスタントなものではない。

「幸せ」には欲望、不安といったものが同時に迫ってくるからである。

そこにあるのは決して、「満足〜」ではない。


そして、そこから二次的に発生するもの。


それは、「退屈」である。


あなたが人生を「幸せ」だと思わない理由、それは「退屈」だからである。

そして、「退屈」だと思う理由、それは「退屈」が「退屈」だからである。


何言ってんだこいつ?と思うだろうが、これは事実である。


「幸せ」の後にやってくる「退屈」、それがまた新たな「退屈」を呼び、「退屈」の連続がまた「退屈」となるのである。

 


一方で野々原ゆずこを見てみよう。

彼女は常に何か新しいことをしようとしている。

 

 

 

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こちらは、カツサンドにソースをかけて食べる為に、学校にブル●●●ソースを持ち込んでいるシーンである。

 

普通、私達が食べているカツサンドはそれで既に完成されているため、何か味付けしようとは思わない。

ましてや、学校に持ち込んだりはしないだろう。しかも、ボトル一本。


ところが、彼女は美味いか不味いかなどには気にせず、やってのけている。
(結果的に、カツサンドを買うのを忘れ、カレーパンを買い、カレーパンにソースをかけ失敗するが)

彼女は現状に満足しない。

 

 

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また、こちらは一人一ターン制で行動するという遊びを提案するシーン。


女子高生の遊びと言えば何だろうか?ショッピング?恋バナ?

少なくとも、ごっこ遊びをする事など稀であろう。ていうか、やらない。

 


しかし、彼女はそんな「普通」をかなぐり捨ててしまう。

彼女は現状に満足しない。

「退屈」を作らない。

例え、それが成功だろうと失敗だろうと、「退屈ではなかった」、その記憶こそが大事なのだ。
「退屈」の連鎖を作らないこと、それが「幸せ」への第一歩なのである。

 


高校時代、放課後に少人数で延々と「だるまさんがころんだ」やった事あるけど、マジで楽しかった。

 

 

思った事はとにかく言う


例えば、頭に「ケツ毛」という言葉が浮かんだら「ケツ毛」と言うのである。

私は病気ではない。


まずは、こちらのシーンを見て頂きたい。

 

 

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あなたはこのシーンを見た時、「パン人間って何?」と思っただろうか?

それとも、「パン動物は?」と思っただろうか?また、それを口に出しただろうか?

 


口に出したあなた、正解である。

 


また、このシーンを見て頂きたい。

 

 

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何の前触れもなく、あなたはこれを言えるだろうか?
言えない人はこれを機に、是非見倣ってもらいたい。

 


「幸せ」とは、「難解な思考の放棄」である。「これを言っちゃうと引かれるな」とか、「会話としてどうなんだろう?」とか、考えるのはあまりにも無駄である。

 

無駄だ無駄だと思い、無理にでも建設的な会話に持って行こうとする、それこそが既に無駄なのである。

 

言葉に発してる以上、それは「無駄」とはならない。無駄なのは、「沈黙を作る時間」、そして、それを必要とする「思考」なのである。

 

考えるな、頭に出てきた言葉、それをぶつけていくのだ。

それに関してさらに言えば、

 

建設的な会話じゃなくてもいい


無駄な会話でも良いのである。例え、それがどんなに適当な話でも。喧嘩にさえならなければ。

あなたは美容室に髪切りに行ったりタクシーに乗った際、美容師や運転手と会話になる事があるだろう。

その会話は、2分以内に打ち切られるだろうか?


打ち切られた経験がある人、それは建設的な会話をしようと思っているからである。

美容師も美容師である、天気の話とか、仕事の話とか、そんな建設的な会話をするな、と言いたい。

むしろ、逆効果である。こちらも返事に困るではないか。

ああいうのは、客側は主導権を握っていない。だから、こちらはいつも答えるだけである。


もっとこう、「宅麻伸って逞しいと関係あるんですかね?」とか、「スマホって全然スマートじゃなくないですか?」とかで良いのである。

もし、それに対して、「そっすか…」と返す人は幸せになれないので放ってよい。

 


実は、「中身の無い話」、これこそが、幸せに最も適した会話なのだ。

「こんなシチュエーションの女(男)良いよな」とか、将来的に役に立たなそうな話で良いのである。

とにかく、自分の考えを述べるだけの会話だって良いのだ。

だって、答えを頭の中で慎重に選ぶ作業が無駄なのだから。

 

 

何事にもリアクションに全力


全力だと疲れるんじゃないか?幸せとは程遠いんじゃないか?

そう思うだろう。しかし、これらのシーンを見てもらいたい。

 

 

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楽しそう。

 


全力でやるという事は、手を抜かないという事。
そして、なあなあで妥協しない事だ。

 

普通、友達が鼻血を出していた時間に蟹を食べていた事を全力で謝るだろうか?

「別に悪いことじゃないし」とか、「いや許すだろう」とか、そんな事が頭をよぎり、
「あー、蟹食っちゃってたねー」
程度に済ませやしないだろうか?

 


もう一度言う。
余計な事を考えるな!その時間が無駄だ!

 


例えば、「たけのこ派きのこ派?」という、古来より受け継がれてきた戦争の火種がある。
これは、手搏図にも描かれていることである。テコンダー朴も多分、そう言ってそう。

 

これに対し、真面目に「たけのこ派だ!」「きのこ派だ!」と主張出来るあなたは幸せである。

これを、「だから何なの?」「お菓子ごときで」「パイの実の方が美味しいw」とか宣う奴は一生幸せになれないので、もう諦めてください。

 


「全力に真面目」というのは、人生に対して多大な敬意を払う事である。
あなたは人生に対して、手を抜いても良いのだろうか?人生を妥協で過ごしても良いのだろうか?無駄にしたいのだろうか?


嫌ならばあなたは今から変わるべきだ。何でも良い。
何か少しでも良いことがあったら間髪入れずにハイタッチをする、みたいな事から始めてみよう。
ちょっとでも凄いと思ったなら、「天才かよ…」と深く感嘆してみる、とかも良いだろう。

 


ただし、「うぃw」はダメである。あれはパリピのノリに見えて、実はパリピではない。
本当は、リアクションを取るのが恥ずかしいから、地味な言葉で誤魔化しているのである。

違う、そんなのは本物のパリピではない。

「うぃw」で誤魔化してる奴は陰気オタクと何ら変わりが無い!出直せ!!

 

 

「私ら何も出来ないよね」の心


さあ、これまでの事を実践しよう!

…と思っても、やっぱり出来ない時は出来ないであろう。


いざ、全力のリアクションを取ろうとしても、恥ずかしさが先行してしまうかもしれない。


いざ、適当な言葉を投げ掛けようとしても、「話続くかな…?」と思ってしまい、上手く出ないかもしれない。


野々原ゆずこであるならば、こんな時、「撮れ高無いな」と包み隠さず反省出来るが、野々原ゆずこではないあなたに「さあ、やってみろ!」というのはあまりに酷である。


そんな時は、私が野々原ゆずこの中で一番好きなセリフを思い出してもらいたい。

 

 

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「私ら何も出来ないよね」


そう、「出来ないならしょうがない」の心を持つ事、
それこそ「幸せ」に到達する、最も重要な事なのである。
決して、14の言葉で天国に行ったり、世界をループし起こる事を覚悟すること、などではない。カタツムリになることでもない。

まあ、広い意味では覚悟とも言えるが。


人間というのは、出来ない事があって当たり前なのである。
それが例え、やろうと思えば直ぐにでも出来る事を。


例えば私、「明日休みだから早く寝て、早く起きて休日を満喫しよう!」と思っていながら、夜中の2時に寝て朝11時前に起きるなんて事はしょっちゅうある。


「今日はブログ更新しよう!」とか「小説書こう!」とか思って、結局夜になる事も普通にある。てか毎日だ。


そこから、「自分何やってんだろう」と落ち込み、深く反省することはあまりにも簡単だろう。


しかし、私は違う。

 

私の心の中には、野々原ゆずこがいる。

 


私の心の中の、野々原ゆずこが囁くのだ。

 

 

 

 

「 私 ら っ て 何 も 出 来 な い よ ね」

 

 

 


出来ないならしょうがないのである。
(ただし、出来ないままにしないようにする事。)

 

 

 


いかがだっただろうか?
これこそが、「幸せ」を手に入れるための「生き方」なのである。


「『ゆゆ式』は哲学」とはよく言ったものである。


そう、『ゆゆ式』とは哲学なのである。

 

そして、その哲学を私達を救ってくれるのだ。

 

だから、今からでも遅くない。

 

 

 


野 々 原 ゆ ず こ

な ろ う ! !

 

 

 

 

 

 

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というわけで、前回に引き続き輪廻転生オチでした。
次回までにはまた生まれ変わります。

(♪TekiPaki)